曹節が謁見の間に普段の彼女では考えられない程の憤怒の表情を浮かべながら踏み入った時、
本来ならば夫が座する筈の玉座には己の兄─曹丕が座していた。
供の者はただ一人として居らず、広過ぎる部屋を見つめるでもなくただ座っている。
だが、動きがない訳ではない。
両手の中で何かを転がし、時折それを軽く宙へ放り投げ、受け止める。
玉座へと歩み寄り漸く仔細が見えた曹節の足が、一瞬止まった。
曹丕は、皇帝のみが持つべき璽を、まるで童が戯れに石を放るかの如くに玩んでいたのだ。
「兄上!!!」
早足は駆け足となり、全力疾走となり。
正に「らしくなく」声を荒げた曹節は、それでも玉座の段の手前で立ち止まる。
気だるげに妹を見下ろす曹丕の瞳は、何時にも増して冷ややかだった。
「どうした、節。女がそんなにみっともなく駆け回るものではないよ」
怒りの理由を解っていて、なお逆撫でする如くにねっとりとした言い回しで諌める。
そんな兄をまるで仇でも見るような瞳で見据えながら、曹節は叫んだ。
「兄上の……兄上の不忠者!!」
「不忠者?」
すぅと細められた瞳の奥に一瞬見えた不気味な輝きに曹節は気圧されつつも、更に言葉を続ける。
「陛下から……陛下から璽と皇帝の位を奪うなどと、およそ漢の民とは言えませぬ!」
「ふむ?」
組んでいた足を解き、ゆらりと立ち上がる。その所作だけで思わず曹節は一歩後退った。
手にしていた璽を玉座に無造作に放り投げて真っ直ぐに彼女に近づいてゆく。
「まだ布告はしていない筈だが。誰から聞いたのか、節?」
その言葉に抵抗するようにきゅっと唇を引き結んだ妹を見て、曹丕は唇だけで笑んだ。
妹は、その報せの主を語れば自分がその者を処刑するのを解っているのだ。
夫である"元"皇帝と、そして漢という国に……"あの"曹操の娘でありながら心から忠実な妹に、
曹丕は可笑しさと心の底より滲み出る嗜虐の意を抑えられずにいた。
段を下り、足が竦んだのか動けないままの曹節を見下ろし、ふんと鼻を一つ鳴らす。
「節が語れぬのなら仕方ない。反逆の芽を抓む為にもお前と協の侍者、全部首を斬るか」
「な……っ」
曹節は驚きと怒りが瞬間的に沸点に達し、それが故に思考が困惑を極めた。
漢の皇帝を名で呼び捨てた不敬。
あまりに独善的な、そして人の命を何とも思わぬその思考。
わずかに揺れた唇から零れた曹節の声を聞き、曹丕は酷く楽しそうに笑い声を上げた。
「冗談だ。だが、本当になるやもしれんよ。節の態度次第では」
「態度……次第?」
曹丕は曹節の横を通り過ぎ、背中側に回り込んだ。
ゆらりと伸びた右手の指先が彼女の顎に触れ、左手が腰を抱く。
「何、節は皇帝の妻。ならば、今や璽を持つ皇帝である私の妻であるとも言えるであろう?」
強張っていた曹節の表情が、一瞬の間を置いて恐怖のそれへと変わった。
兄の言わんとする事を悟ったのだ。
もう手遅れかもしれないと思いつつも、両手を左右に激しく振って抵抗する。
「いや、いやっ!兄上、何を馬鹿な事を、離して……離してっ!」
だが、その華奢な体躯は細さに見合わぬ強い力を持つ曹丕の腕に既に捕えられていた。
視界の端に兄の白い頬がちらりと見え、右の耳にぬめっとした生暖かい何かが触れる。
それが兄の唇であると理解した瞬間、囁き声が聞こえた。
「暴れたければ構わぬよ、節。逃げたければそう言えば離してやろう。
だが、お前が私の腕から逃げる道の後に、幾つもの骸が醜く転がる事を良しとするならばな?」
息を飲む曹節の耳朶に口付けを落としながら、曹丕は解り切っている妹の返答を待った。
「兄上の……好きになさって下さいっ!」
憎しみすら伺える呻き声のような答えに、曹丕は残酷に微笑んだ。
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